美術家 清水義光の芸術世界

中国旅行記(1)~(20)

-この「中国旅行記」は現代中国には文革前の資料はなく、貴重なので・・・・との中国の方からの要望で2013年前半に書いたものです。
翻訳文がこのホームページの中国語版に流れていますが、原文を日本の方々にも・・・・との声が多く、ここに掲載することにしました。-

中国旅行記(16)

  いよいよ北京最後の日がやってきた。大学生同士の交流の日でバスを連ねて北京体育大学へと向かう。街には高いビルが3棟くらいしか見当たらない。北京飯店と先日歓迎会が開かれた建物とあと一棟くらいで家並みは低くとても落ち着いて見えた。行き交う自転車は洪水のようだが人々は規律を順守するので事故は少ないという。乗用車といえばタクシーくらいである。澄んだ空と木々の緑と朱色の建物、正に「北京秋天」の様だった。
体育大学へ着くと他の大学生も交じっての大歓迎であった。最初に剣舞の様な剣と中国薙刀の戦いを見た。互いの鋭い攻め方と避け方、それが段々激しくなりその見事さに思わず拍手をする。とても学生とは思えない。次の部屋に移ると器械体操をやっていた。女子学生がピタリと身についた水着の様なものを着て我々の眼前で平均台の演技を披露する。
逆立ちをして股を開いたりする。若い体からムンムンとした匂いが伝わる。日本女性と体型が異なり皆腰高である。次は皆さんと卓球大会をしましょうと広い体育館へ移動する。
その時、私は小用を催しトイレを尋ねた。すぐ右手を入った所にあると教えられ行くがトイレが無い。長い壁がありその上からチョロチョロと幾筋も水が垂れていて、これは手を洗う所だと思って引き返した。また尋ねるとそこでやるのだと言う。これには全く驚いてしまった。
不思議な体験であった。大の方に入った者は下部が丸見えだといって笑っていた。飯店は外国人用に作られていたのだ。
卓球は私も得意とするところで打ち込みのスマッシュには自信があった。ところが彼らのサーブがどうしても拾えない。サーブに思いがけないカットが加わって手前で急回転する。
不思議な曲がり方で全くのお手上げであった。相手は普通の大学生である。分厚い卓球王国の力を見せられた感じだった。手首がとても柔らかく器用にできているのだろう。時折、来日する中国曲芸の柔らかさには想像を絶するものがある。同じ人間とはとても思えない。
大学の食堂に向かい食事をしながらの談笑となった。一つの食卓に3人の中国学生と一人の日本学生の配置である。中に通訳のできる者が必ずいる。私はどうしても尋ねたいことがあった。
  「中国に来て人々の目がとても輝いて見えた。物を捨ててもちゃんと元に戻されたりする。あなた達のそういう輝きと態度はどこから来るのか。」
と尋ねてみた。学生たちが言い始めた。
  「私達は今、やっと人間らしい普通の食事ができるようになりました。しかし親たちの時代はとても貧しく、草や木や虫などを食べて凌いで来ました。今ベトナムではアメリカと戦争中で、彼らは私達の親と同じような生活をして頑張っています。私達は一日でも早く我々に近づいてもらいたいと願って、贅沢を慎み最大の支援を続けているのです。」
この言葉に私は衝撃を受けた。そういう心が目を輝かせていたのだ。毅然とした態度の真っ直ぐな国民を見て、こんな隣国に理想とも思える人々がいるのかと感嘆してしまった。
我々は自分の事のみで生きている。他人を思いやる、ましてや他の国の人々を思いやって我が身を削り支援しようなど思いもしない話であった。もう一つ尋ねてみた。
  「中国では雀退治を全国一斉にして今はもう雀がいないと言われ、旅行中も本当に見かけなかったですよ、一体どうやって退治したのですか。」
すると、彼らは笑い始めた。
  「それは簡単ですよ。全土で日時を決め一斉に退治したのです、何でもいいから音のする物を持ち出そう、盥の様な雀が驚く物をと。それを雀が止まりそうな木の下に行き叩くのです。雀の集団がやってきたら一斉に叩く。そうすると雀は怖くて止まれない。止まりたくても止まれないので疲れ果てて落ちてくるのです。これを中国全土で実施して全滅させたのです。」
私は驚き「そんな馬鹿げた案で皆がよく参加しましたね。」と言うと
  「日本では無理でしょうね、あなた方の国は賢い人が沢山いて、あれはダメ、これはダメと言い合って決まらないでしょうね。我々は例え変に思える案でも一つやってみようじゃないかと一致するのです。ダメならまた変えればいいだけです。」
と言われてしまった。この話こそ大同小異の見本の様に思われた。
最後に全員で一日も早く日中国交が実現し、再会出来るよう「東京・北京の歌」を大合唱した。そして北京駅へ向かった。
大勢の学生たちに見送られ列車に乗り込み一段上がった時、私は大柄な男性に強く抱きしめられ息苦しい程になった。北京体育大学の先生ですっかり仲良くなっていて、彼も別れの寂しさを全身で表してくれたのであった。

中国旅行記(17)

  最後の訪問地・北京を後にし、列車は一路三日をかけて広東へと南下する。今度は全くの内陸地帯だ。黄河だと誰かが言ってるが眠気で見ぬうちに過ぎてしまった。すっかり疲れも出て車内は静かである。各都市での歓迎と連日の見学、それよりも食べ過ぎの体でみな不調を訴え始め、元気なのは私くらいである。だから人の看病に追われる。これも深圳でのことが幸いしている。
長い車中なので色々思い出したりする。北京で夜歩きした時、王府井の歩道にうず高く西瓜が並べられていて、その形がラグビーボールのようで、それを棒で叩きながら売っている。丁度駄々っ子のお尻を叩いている風で、私はその後ろに立って
  「えーいらしゃい、この子は安くしておくよー」
と言ってふざけたりする。北京飯店までやって来たとき頭上に満月が輝いていて、かの阿倍仲麻呂が日本を懐かしみ歌った
  「天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山にい出し月かも」
を思い出したりする。そこから引き返して行くと先程の西瓜売りが店じまいをするところで、バケツに溜まったものを思いっ切り車道にぶち撒いた。その黒い小さな塊を目がけ子供達が集まって来て取り合になった。この国では西瓜の種を酒のお摘みにすることを思い出した。また、中国一と言われる北京ダックの店で、頭のついたままの家鴨が出てきてのけ反ってしまったことなども今は懐かしい思い出である。
漢口駅でしばらく停車。揚子江を渡るがここの両岸はギッシリ建物に囲まれ、河幅は南京辺りより一層狭かった。先日武漢の揚子江を毛主席が泳いで渡られたのはこの辺りかと感慨深く見下ろすのであった。漢詩によく出て来る洞庭湖は是非見たいと思っていたが、湖が多くてしかと確かめられないままであった。
日本の列車の旅はいくら長くても三日も乗り続けることはない、もう飽きてきて落ち着かない。寝台の上から絶え間なく「東方紅」が流れ皆、閉口している、私はとうとうスピーカーの線を引き抜いてしまった。静かになってみてレールの継ぎ目によって出る音の間隔が日本の物より長いことに気付く。
大陸に来て大地の分厚さも実感させられた。こちらの大陸から見れば日本は小さな離れ島にしか思えない。しかし、日本列島は海にならなかった強靭な大陸の残りであり、ユーラシア大陸を太平洋の荒波から守る東の防波堤でもあると益々確信するのであった。

中国旅行記(18)

  再び広東に着く。南国らしい家並みが続く。広東飯店の部屋から見下ろすと色づいた甍が続いていてヨーロッパにいるような気分になる。街中の商店は暑さを避けるため軒下が通路になっている。広東の暑さは香港に比べるとやや楽であった。香港では毛穴に突き刺さる暑さで陰へと走らざるを得なかった。思えば北回帰線の真下に来ていたのだ。
広東でもまた仮病を使って骨董屋巡りをすることにした。
タクシーに乗り紙に骨董屋と書くと連れて行ってくれた。前の晩、親しくなっていた友人達10人から残り金を借り、それを資金に記念になるものを手に入れようと思った。
着いた店は間口が狭いが奥が深く色々な物が並んでいた。伸び上がったり座ったり色々物色するが気持ちが動かされるほどの物はない。
部屋の中央にガラスケースが並んでいて光って見ずらいなと近づくと思わぬものが並んでいた。鶏血印材である。それが極小印材を先頭に一列に徐々に高く並べられ、一番奥は山型の自然石で一メートル半位の長さで並べられていた。
鶏血印材はとても高価でかつ珍しいものである。鶏血の赤色は驚くべき鮮やかさで世界中探せどこれ程の赤は無いと尊ばれている。赤の周りの色により価値が決まる。クリームがかった白色が第一等と言われている。だがここにあるのはやや青味がかった深い色だ。それにしても自然石の鶏血印材を見ることは日本では不可能である。長方形の一センチ幅が大きい方である。目の前に見たこともない鶏血印材の行列を見て体が震えるような興奮を覚えた。どれにしようかと迷いに迷った。中位の印材の値段を聞いてみると思いの他安かった。思い切って一番大きな自然石の値段を聞くと持参したお金とピタリであった。これを欲しいと申し出ると店の主人は驚いた顔をして本当だろうかと確かめた。
私はポケットからお金を出し見せると「ハオ、ハオ」と言って包んでくれた。
店から出ようとすると笛の音が聞こえ人々が通りに溢れていた。白い服の警官たちがいて彼らが笛を吹いているのであった。店先の道路で事故でも起こったのかと思い出ようとした時、人々の視線が一斉に私に注がれているのに気付いた。骨董屋の中で異国の人間が何やら物色しているという噂でこれ程の人々が集まったのだろうか。
私自身は目が細く日本では中国人に間違えられることもある。だがこれ程珍しく思われるとは想像もしなかった。
気付けば私が着ていたのはアロハシャツであった。

中国旅行記(19)

  中国旅行の締め括りで旅行社主催のお別れパーティが開かれた。広東の中心地の大きなレストランへ移動した。公園の近くで涼しくなった頃合いを見て人々が沢山集まっている。そのレストランの2階へ通された。
旅行社の挨拶、学生代表である早稲田の学生が挨拶し、最初は乾杯に次ぐ乾杯で我々は雰囲気に酔いしれて、最後の心遣いである広東料理に舌鼓を打った。宴も終盤になり酔いを催す学生が増えてきて、東大の男子学生がその場で吐いてしまった。我々は急いで彼を階下に連れて行って横にした。
上がってくると会場の雰囲気が一変している。中国人達が呆れた顔で我々を見ながら
  「全くだらしない、我々中国人は決して人前でこういう醜態を見せることはない。日本の学生は許せない。」
と吐き捨てるように言った。その言葉に我々は硬直してしまった。
日本ではこういう光景は特別なことではない。大虎、小虎などと酒が強い弱いを言い合い、日本酒の度が余り強くないので酔いそうな場合はトイレに走りこむ。ところが思わぬ強い度の乾杯の繰り返しで東大生も酔ってしまったのだろうという同情が我々には先に立つ。
それをここまで侮蔑の目と言葉で表現されてはたまらない。一同何か言わねばならない。
誰も反論する者がいない。そうするうちに私の背中を押す者がいて、周りで「清水、清水。」という声が上がり始めた。その声は一気に高まり手拍子も加わってきて私は引くに引けない所に追いやられてしまった。ここは学生代表が処置すべき場面である。ところが今まで自由気儘に振る舞ってきた私こそ彼らは必要としてくれているのだ。
私は立ち上がって言い始めた。
  「これまで思いもせぬ歓待を受け、中国の方々ととても楽しいひと時を過ごさせていただきました。中国の人々の目の輝きと真っ直ぐな国民性にとても教えられました。そして今日また我々の為にこのような別れの宴を開いて下さりお礼の言葉もありません。素晴らしい建物や美術品も見せて戴きました。しかしこの旅行で感じた事を一つ言わせていただきます。色々な所を回り美しい場所を見ると必ずと言っていい程そこに朱色で大きくスローガンが書かれています。これでは立派な岩場や建物が台無しです。自然や文化財が政治のスローガンで汚されることがあってはなりません。それに対して皆さんは一体どう思っておられますか。」
と思い切り大きな声で言った。
すると向こうの旅行代表のメガネの男が立ち上がって反論を始めた。
  「何を言っているのだ。政治に全てが従うのは当然ではないか。」
と大変真っ赤な顔で言い立てた。見ると中国の関係者が皆立って私を睨んでいる。
私は又立ち上がった。
  「それは可笑しい。自然や芸術は政治と言えども従属させるべきではないのだ。」
すると
  「それは絶対に許せない言葉だ。」
と言い返された。私は又言った。
  「では、解った。どちらのやり方が果たして正しいのかを勝負しようではないか。100年後だ。100年経ってどちらが正しかったかを決めよう。」
と我ながら思いもせぬ言葉が出てしまった。これでは両者共確かめようもないが、私の言った100年後の言葉で学生たちも沸き立ち、
  「そうだ100年後だ、100年後だ。」
と叫んだ。
中国人達も「百年後だ」と言いながら笑顔で寄って来て、メガネの男が私を抱きしめ次々と抱きしめられ、会場はいつの間にか入り乱れての握手と歓声で騒然となり、思いもせぬ別れの会になってしまった。

中国旅行記(20)

  中国領の最終地、深圳に沢山の思い出も抱えて再び辿り着いた。学生として日中友好を少しは果たしたが、日中国交はというと夢の又夢の話である。我々の時代で国交が実現するのであろうか、いや実現させなくてはいけないという思いと祈りで、何度「東京・北京」の歌を歌ったかもしれない。今思えばそういう政治事情を超えての心の交流であった。人はどこに生まれるのかは誰も解らない。人も自然の一部であり決して政治や国土の一部ではない。それぞれの心を正直に出し合っての交流こそが全てを打開し結び合える、そういう事を実感できる旅であった。
又、私達日本の学生は訪中前に思いもせぬ決意を迫られていた。日本の旅行社の人から
  「訪中したら一生台湾へは入国できませんよ。それを覚悟の上ですね。」
と言われていた。
私は書や美術を学ぶ学生として多くの見学と資料を入手した。それらを日本へ運ばねばならない。余りに重い拓本類は既に船便で送り出してある。だがまだ硯や印材や筆や墨、そして拓本の膨大な「まくり」、加えて杭州で手に入れた沢山の絹製のクッションカバーなどもある。これ程の買い物をしているのは私一人で、これは日本の入管で没収されるだろうと言われてしまった。貴重なものは粗末なものに包み、出来れば汚れた下着がよい。「まくり」は少しづつ新聞に巻き、ゴミの様に折りたたんで入れる。そういう事を教えられる。それをお金を貸してくれた者達がバラバラに入れて運んでくれる話でまとまった。
でも深圳の国境までは自分で運ばざるを得ず、別れのレールの所で何回も立ち止まっていると旅行社の人々が走って来て全員で荷物を持ってくれた。学生たちを送る筈が私の荷物運びで、ただただ頭が下がる思いであった。
香港領に入って遠くに手を振る彼らに涙と共に手を振り続けた。二度と会えない人々であった。
香港では一日の観光日が設けられ国際的に有名だという海水浴場に案内された。そこはまるで私の故郷の海水浴場かと見間違う程似ていて、遠浅の浜に沢山の西洋人がいるのは不思議な光景であるが浜辺の両側から遠くまで突き出た岬の形までそっくりで香港にいることをしばし忘れる程であった。
香港島には所狭しと高層ビルがひしめき、東京の比ではない。その銀行街を通り抜け別荘地帯の山に上がって行くと広い駐車場があった。そこで周りの島々や大陸側の九竜風景、そして建物スレスレに降りてくる飛行機などの写真を得意になって撮影した。
(帰国してみるとこの時フィルムを入れ忘れていた・・・)。
九竜側の迷ってしまいそうな商店街をそぞろ歩きし、それぞれが土産物を買い入れた。
そして再び貸切りの日航機に乗り羽田に着く。
税関は無事通過し外に出ると預けた者達が一斉にやって来て私の物を次々と置いて行った。
それを綺麗に包み直しているうちに皆の姿が見えなくなってしまった。
借用した大金を一刻も早く返済しなければならない、それを今からどうすべきかと呆然とするのであった。
(完)
                                 清水義光