美術家 清水義光の芸術世界

中国旅行記(1)~(20)

-この「中国旅行記」は現代中国には文革前の資料はなく、貴重なので・・・・との中国の方からの要望で2013年前半に書いたものです。
翻訳文がこのホームページの中国語版に流れていますが、原文を日本の方々にも・・・・との声が多く、ここに掲載することにしました。-

中国旅行記(11)

  作品制作をする人間として、中国へ行けば上海博物館へはどうしても行きたいと思っていた。しかし我々のスケジュールには入っていない。次の日は郊外の人民公社見学となっている。私は仮病を装うことにした。
今迄、広東、杭州、上海と大歓待を受け、その間、列車の中でも朝食からフルコースであった。いつしか食堂車の片隅で簡単なそばをすする中国人達が羨ましく思えたりしている。
我々は苦学生が多く、貴族待遇に慣れていない。加えて、暑さと運動不足で参る者が続出。
そうだ、これでいこうと決めた。
皆が人民公社へ出払った後、徐に玄関ホールに降りると、女学生が3人待っていた。
前日、私は上海博物館へ行くのだと話をした人達だ。
我々仮病グループは初めての開放感で喜び勇んで街に出た。大通りはやはり大変な人出だ。暫くブラブラして左に折れ、やや行くと右手に上海博物館があった。
6階建ての四角い建物の中に入ると、思わぬ量の青銅器類が並んでいた。2階3階と立体物を観て6階にたどり着く。その壁面一杯に八大山人の書の掛け軸が掛かっている。
八大山人は明末清初の画家で、石濤や金冬心と並び評されるが、彼らの比ではないと私は思う。世間から奇人、狂人と言われ、本人もそのように振る舞ったらしいが、作品にはそんなところは微塵もない。実にじっくりした作品作りで滋味溢れるものだ。
彼の絵の細い輪郭線で描かれた木々や岩や家の白を見るがいい。その時代の多くの画家が輪郭などを描きながら存在を創ってゆくのに対して、八大山人は描く前に既に紙の上にそれぞれの存在が見えているようだ。だからその描き残された白が安定していてしかも分厚い。
もはや現代では最も重要で貴重な作家と尊ばれている。従って日本で本物に接することは非常に困難だ。
書も同様で悠揚迫らざるものがある。それらの行草体の書は筆の毛の持つ微妙な力をゆっくり溜めつつ書かれた線で、彼独自の字形の省略の妙も加わり、その人となりが伝わってくる。それらを見上げながら独り占めの至福を味わい続けるのであった。
博物館の帰り道、彼女達から興味深い話を聞いた。
その中の一人が今まで穿いていたストッキングが伝線してしまったので部屋のゴミ箱に捨てた。外出から帰って見るとベットの上にそのストッキングがきちんと畳まれて置かれていた。翌日、又、ゴミ箱に捨てた。今度は紙に大きく「不要」と書いて一緒に入れた。だが、又、ストッキングはきちんと畳まれ置かれていた。
まだ穿けるので大切にするようにとのメッセージである。
このまま穿けば伝線は広がるばかり。とうとう困って、ハサミでズタズタに切って捨てたら今度は無くなっていた、というのだ。
  「そういえば中国入りしてから皆、旅行鞄は開いたまま外出しているよ、でも何もされないし安心だよ。」
と私は言いながら、つい一週間前の香港での事をすっかり忘れている自分に気付いた。
この国の人々は人の物を盗むなど思いもしないのだ。物は決して粗末にしないという生活をしているのが解り、これは我々が忘れていた心だと反省するのであった。

中国旅行記(12)


  上海を出発し南京駅で暫く停車。プラットホームで大山兄弟の太った弟と腕組みして写真を撮る。夢にまで見た揚子江に近づいている。
世界に冠たる大河のスケールとはいかなるものかと私は心が弾んだ。渡るのに2時間はかかると通訳が言った。
河岸に到着すると今から列車ごとフェリーに乗せるという、それにも驚く。
かなりの時間をかけて列車を三つ折り状態にしてフェリーが動き始めた。
左手前方には滔々たる大河が遥かまで流れ、およそ対岸らしきものは見えない。
だが前方には岸がはっきり見えて、それはこちらの岸の続きだろうと言い合う。
底知れない水量の上に浮かび出て今、揚子江の上にいるという喜びは計り知れない。
さあいよいよあの茫漠たる左へと方向チェンジをするぞと皆期待しながら見守っている。
フェリーの右手の遥かに工事中らしい橋桁が何本も見え、皆が写真を撮っているので私もカメラを向ける。あれは揚子江に架かる南京大橋で、間もなく上部に橋が架かりますと通訳が嬉しそうに解説してくれた。
それを聞いたとき私は一瞬変だと思った。そうしているうちに前方の岸が近づいてきて、警笛が鳴り、もうすぐ到着とアナウンスが入った。
私の頭の中はクルクルと回り始め、いつの間にか車中を走っていた。私に2時間もかかると説明した者を捕まえようとしたのだ。2両目位走った時追いかけて来た日本の学生達に取り押さえられ、自分の異常さに気付いた。夢が破られた無念さがそうさせたのであった。
  「日本にも大きな河があるじゃないか」
と言ったという話が私を誇大妄想にさせていたのだ。
2時間に間違いはなかった。列車の出し入れの時間を加えての話であった。
長旅の最後の目的地北京駅に到着すると、プラットホームには溢れんばかりの歓迎で、長く日中文化交流の懸け橋を担って下さっている西園寺氏の顔が見え、中日友好協会の人々も出迎えて下さっているようで我々は恐縮するばかりであった。
駅前に出ると広場の周りは歓迎の人々で埋め尽くされて、「東京・北京」の歌の中を歩いて行った。
今度も最高のホテル・北京飯店だろうと皆思っていた。しかしアジア・アフリカ作家会議が北京飯店で開催中とのこと、王府井の先を右折したところの二流飯店に宿泊することとなった。主席や首相にお目にかかれるなどという甘い夢は自然になくなってしまった。
夜は移動して立派な会場での歓迎会となった。
宴もたけなわとなり、中日友好協会会長寥承志氏の母校・早稲田大学の校歌が始まった。
早稲田の学生も沢山いたが、私は寥承志氏の隣にいて肩を組むこととなった。
  「都の西北・・・・・」
の歌を体を揺らしての大合唱で、正に日中一体の心が沸き起こり、興奮のるつぼと化した。

中国旅行記(13)

  北京といえば紫禁城、今の故宮博物院がまず第一に思い浮かぶ。
日本人は「北京秋天」という梅原龍三郎の名画でよく知っている。これは画伯がすぐ近くの北京飯店に逗留して描かれたものである。
飯店からほど近くに古い赤塀の民家が建ち並び、それはとても趣のあるものであった。
北京飯店の前を通り過ぎ、100万人は大丈夫という天安門広場にさしかかった。左前方に人民大会堂が偉容を誇り、広場を挟んで真向いに歴史博物館が遠望された。
天安門の高い朱の壁をくぐると大きな広場で、正面に宮殿が鎮座している。そこには大理石の階段を上がってゆくのだが、中央部分は龍の彫刻が刻され今は金網がかけられ、天子のみが通れる空間だという。こういう形式が次々と現れる。奥の方の宮殿には嘗ての皇太后が座ったという椅子なども昔の位置に展示されている。そういうものを早足で見て回る。
芸術品を見たいとやってきたが絵画などがどこにもない。蒋介石が全て台湾に持ち去ったのです、台北の故宮博物館にあるという。
丁度足が疲れたころに甲骨が並んでいた。殷時代の甲骨文で我々書の研究にとって最古の資料だ。亀の甲羅の裏面などに百草を詰め込みそれを焼いてひび割れを起こし、それらによって豊作などの吉凶を占ったものである。そのことを鋭利な刀で篆書体で刻したものだが、これを現代に再現したくて、日本の京都大学で実験してみたが、現代のどのような鋭利な刀を用いても刻せなかったという。それを古代人は見事に刻し我々を引き込む。
それらの一点一点に見入っているうちに私一人になってしまった。
部屋から出ても誰の姿もない。他の者はそういうものに興味はないのだろう。
現代日本の学生で訪中出来る者は皆無に等しい。ましてや書を学ぶ学生が訪中した話は聞いたことがない。私はこの目でしっかり見なければいけない。
歩いて行くと右手に思いがけぬ小さな建物があり石鼓室と書かれていてこれは観ねばと思った。そうか、大きく重い石鼓は蒋介石といえども運べなくて置いて行ったのだと解った。
その部屋へ入ろうとした時、今まで遠くからそれとなく私を見張っていたメガネの男が近づいて来て、そんなところへ入らないで早く行けという仕草をした。日本語が話せない政府の旅行責任者の様だ。それを無視して私は入ろうとした。その時彼は激しい形相で迫ってきて肩で私の肩を小突いた。この野郎、言うことを聞けと言う風に・・・・・。
これには私も黙っておれず持参していた大学の名刺を出して見せた。
すると彼の態度が一変し、にこやかな顔になり、どうぞどうぞと入口を示した。
名刺には書の研究をしている学生だということが明記されていた。
石鼓は思いのほか沢山あり、黒々しい石に刻された篆書体の銘文の多くが欠けているが、残った文字はとても深くしっかりしたものであった。
暫く見入って出ようとすると、見張り番の男がもっともっとごゆっくりという仕草をし、私ももう結構ですと仕草をしたので思わず肩を叩き合うこととなってしまった。
待ちくたびれた学生達と合流し歴史博物館へ向かった。ここでは私の方が早足となった。
その後、頤和園へ回ると美しい蓮の花が満開で中国風の石橋の向こうの広い湖には恋人達のボートが多数浮かんで、これはどこの国も同じだと安心した。
大理石の巨大な船があったりして昔の皇帝たちの途方もない贅沢さが偲ばれた。
道行く北京の街は昔変わらぬ風情が残り、私の心は和むのであった。

中国旅行記(14)

  翌日は又、仮病を装うことにした。一人で出かけどうしても入手したいものがある。
飯店の前の道にずらりと人力車が並んでいて先頭の年老いた車夫に紙を渡した。乗れと言われ先に代金を支払う。天安門広場を横切り天安門と正反対の方向に進む。
こうして人力車に乗るのは幼いころ高熱を出し母親に連れられて病院へ行った時以来で何故かしみじみした気分になる。
紙に書いた瑠璃廠に近づくと書道専門店ばかりでどこに立ち寄るべきか目移りがする。
四つ角を過ぎた右手に有名な榮寶斎を見つける。二階建ての大きな店構えの中に入ると端渓硯が並んでいてどれも古端渓である。硯の丘のところを次々と触ってみると実に鋒鋩の当たりが心地よい。その中の小ぶりの芭蕉風の硯を一面入手する。
その店を出てすぐ左手に慶雲堂という店があった。拓本の専門店でうず高く積まれた拓本の余りの多さに戸惑っていると店員が気を利かせて紙を持ってきた。それに漢碑、六朝・唐碑の拓本と書くとドンドン出してきて、それらを次々めくって良し悪しを確かめながら10冊ほど決める。
六朝時代の鄭文公下碑や龍門二十品、唐時代の顔真卿の争座位稿などである。
これらはすぐには持ち出せないようで委員会の承認を経て渡すので明日もう一度来いと言うようなことを紙に書いて渡された。
私の今回のお目当てはこういう本になっている拓本ではなく岩や石碑に刻されたままの大きさの「まくり」という拓本なのだ。その「まくり」がどうしても通じない。両手を広げて説明するも解ってくれない。
困り果てている時、外から店員が帰ってきて大きな紙の束を丸抱えしている、あれだと叫んで店員の後を追う。店の奥には庭もありその右を入っていくと店の主人らしい人が出てきて私を止めた。前の店に戻れと言う。先程の紙を見せあの店員が持っている大きい拓本が欲しいと言うジェスチャーをするが盛んに出ろ出ろと言う。
困り果ててそうだと思って名刺を差し出す。
それを見てやはり主人の態度が一変し、紙に希望の碑名を書けと言う。やや興奮状態なのですぐには出てこない。兎に角、第一に欲しい前漢時代の開通褒斜道刻石と書くと奥から若い店員が持ってきた。
それは訪中前に先輩宅で訪中するなら是非こういう物を入手するようにと見せられた物と同質で、分厚くやや茶色がかった布の様な紙にとてもしっかり採られた拓本であった。
200年以上は前に採られたもののように見えた。これを5点欲しいと言うと全て持って来た。
これに調子を得て次に石門頌、楊淮表記、石門銘、鄭文公下碑、龍門五十品、廣武将軍碑、張猛龍碑、顔氏家廟碑など思い浮かぶものを次々書くと、どんどん運んで来て店員達と広げては決めていった。この中の半分くらいは5点づつ入手することができた。
大学の教授や出版人や友人にお土産にと思うのであった。
そうこうしている途中に二人の客が入って来た。学生たちと共に出かけたはずの大学教授だ。
今回この教授達が旅行に同伴している。
仮病の私を見て彼らはニヤリと笑ってすぐ出てくれた。その時、外で車夫が待っていることを思い出した。一体どの位待たせたか知れないのでお金を出すと、とんでもないという風に即座に返され、手を振って要らない要らないもう貰っていると言っているようで、私は申し訳け無さで何回も頭を下げて、もう少しだけ待ってくれという仕草をした。
お陰でやっとお目当ての物を入手し、これで大手を振って日本に帰れると思い、これらを人々に披露することが楽しみとなった。
その後、違う店に入り墨と大筆を入手した。大筆はその店一番のものらしく水牛の軸でできていると彼らは自慢した。
本の拓本類は次の日にタクシーを雇い取りに行った。本の裏面には赤い蝋で許可印が押されていて全てが持ち出し可能となった。帰り道、歴史博物館の近くの郵便局から重たいそれらを船便で送り出した。
その時のタクシーの運転手が可愛い20歳くらいの女子で、ドアの内側は破れてあちらこちら中身がはみ出したままであった。
道路は自転車の洪水で交通整理の警官が四つ角に立っているが自転車優先の指示で中々進めなかった。

中国旅行記(15)

  今日は遠出で明の十三陵を経由し、八達嶺の万里の長城見学である。
バスに乗ると歌が始まったりする。日本で何回も練習してきた中国の歌を皆で歌う。私は練習に参加していないので歌えない。喜んで歌っている学生達を見るとこの国にどこか迎合している様でいやである。歌が始まると決まって後ろの3人組が日本の歌を大声で歌い始める。大山という名の兄弟と私である。大山は北京郊外で生まれたらしく今回の旅は里帰りでもある。この破天荒な兄弟と私は
  「デカンショー、デカンショーで半年暮らす、ヨイヨイ、後の半年しゃ寝て暮らすヨイヨイ・・・・」
を手拍子も交えて歌いだす。これは日本の大学生が飲み会で最初に歌う定番で、哲学者のデカルト・カント・ショーペンハウエルを文字って作った歌である。それに続いて、子供の歌「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子一つ私にくだしゃんせ・・・・」や「もしもし亀よ、亀さんよ、世界のうちでお前ほど歩みののろい者はない、どうしてそんなにのろいのか・・・・」などを歌う。前の学生たちと後ろの我々の日中両国の歌合戦になってしまう。
又、バスの窓から町を歩く女性たちに歓声を上げたりするので通訳の女性から叱られる。
  「清水さん、何をしに中国へ来たのですか、女の子ばかり見て、本当にお坊ちゃんですよ」
と言われてしまう。それを聞き流していると益々腹を立て「いいですよ、いいですよ、どうせ私に関心はないのでしょう。年取っているのですから・・・・」と言い出す。「そんなことはないよ、端さんも綺麗だよ。」と名前を言うと彼女も笑い出してしまった。
明の十三陵は朱色の巨大な陵で長い下り坂を入っていくと広大な地下宮殿であった。
これは中国にとっては極新しい物だが中国全土にはどれだけの陵や墳墓があるか知れない。
唐の太宗皇帝の墳墓を発掘すれば王羲之の肉筆が出てきて世界の大発見になるだろうといわれている。
地上に存在する作品より地下に眠るものの方が遥かに多く、今は未来の人々の為に眠っているのだろう。
万里の長城のすぐ下の駐車場に着く。うねるように続く長城が見え勇んで上って行った。
ここは近年再建された部分で、向こうの山稜に崩れて見えるのが明時代の長城ですと説明を受ける。では秦時代のものはと尋ねるとよく解らないとのことであった。
立派に作られた煉瓦の通路は歩き易く、そのうちどちらが中国領かわからなくなってしまった。壁に窪みのあるほうが外敵を撃つために作られたものと教えられる。
一時間ほど歩いて行くと急階段になっていてこの近辺で最も高い所であった。まだまだ遥かに続いていて漢の詩文に描かれているようにそれは煙霧の彼方に消えるように見えた。
嘗ての武人達の強烈な恐怖心が作らせたのである。
そう思いながら来た道を引き返そうと思った時、今上ってきた階段が余りにも急で降りれなくなってしまった。恐る恐る尻から降りていると上ってくる女学生達に笑われてしまった。